「怒られな分からへん子」って、本当にそうでしょうか?
2026/10/06
「強く言ったら動いた」 その瞬間を、“分かった”と思っていませんか?
この記事を読むと、 「怒られな分からへん子」と思っていた子どもの姿を、 これまでとは少し違う角度から見られるようになるかもしれません。
「もう‼︎ この子は、いっつもいっつも、うるさいねん!」
午睡の時間。
部屋の明かりは少し落とされ、子どもたちはそれぞれの布団に横になっていました。
すぐに眠りにつく子もいれば、なかなか寝つけず、何度も寝返りを打つ子もいます。隣の友だちに小さな声で話しかける子、布団から足を出してしまう子、眠れないまま天井を見つめている子。
そんな中、寝つけずに動いたり話したりしていた子が、先生に強く叱られました。
その子は、大きな声で泣き始めます。
すると今度は、
「泣き声がうるさい!」と、また叱られました。
しばらく泣いたあと、その子はそのまま眠りました。
こうして、午睡の時間になると、強く叱られ、ひと泣きしてから眠る。
そんな流れが、その子には毎日のように繰り返されていました。
その姿を見るたびに、私は考えてしまいます。
「この子は、怒らな分からへんねん」
そう言われることもあります。
たしかに、優しく言って分かるなら苦労しない。何度伝えても同じことを繰り返したり、こちらの声が届いていないように感じたりすることもあります。
そして実際に、強く言った方が子どもが動くこともあります。
だからこそ、
「やっぱり、強く言う方が効く」
「この子には、これくらい言わないと分からない」
そう思ってしまうこともあるのだと思います。
でも私は、その「効き目があったように見える瞬間」が気になります。
強く言われた子どもが、急に黙る。
言われた通りに動く。
泣くのをやめる。
その姿だけを見ると、「伝わった」「分かった」と思うかもしれません。
でも、
強く言われて静かになったことと、
「今は静かにする時間なんだ」と分かったことは、同じなのでしょうか。
強く言われて片づけたことと、
「なぜ片づけるのか」が分かったことは、同じなのでしょうか。
強く言われて友だちを叩くのをやめたことと、
「叩かれたら相手は痛い」と分かったことは、同じなのでしょうか。
行動が止まったことと、その意味が分かったことは、もしかすると別なのかもしれません。
子どもは「内容」だけを学んでいるわけではない
子どもは、大人から「何を言われたか」だけを学んでいるのでしょうか。
私は、そうではないと思っています。
子どもは、大人が誰かに何かを伝えるとき、どんな声で、どんな表情で、どんなふうに相手を動かそうとしているのかも見ています。
強い声で言われる。
強い言葉で言われる。
そして、強く言われると動く。
そんな経験を重ねていく中で、
「相手を動かしたいときは、強く言えばいい」
ということまで学んでいないでしょうか。
私は、「怒られな分からない」と言われている子ほど、自分の気持ちを通したいときに、泣き叫んだり、大きな声になったりする姿をよく見ます。
もちろん、すべてが大人の関わりだけで決まるわけではありません。気質もあれば、言葉で表すことがまだ難しい時期もあります。
それでも、
「この子は、すぐ泣き喚くから強く言わないと分からない」
と見るだけではなく、
「強く言われる関係の中で、この子自身も“強く伝える方法”を覚えていないだろうか」
と見ることも必要なのではないでしょうか。
そして、これは子どもだけの話ではありません。
私たち大人自身も、小さい頃から、
強く言われて動いたり、
怒られてやめたり、
怖いから従ったり、
そんな経験をしてきた人は少なくないと思います。
だから私たち自身も、
「相手を動かしたいときには、強く伝える」
という方法を、知らないうちに学んできたのかもしれません。
誰かから「こうしなさい」と教わったわけではなくても、自分自身がそうやって動かされてきたからこそ、それが自然な伝え方になっていることもあるのではないでしょうか。
そう考えると、
「この子は、怒らな分からへん」
という言葉の向こうに、
本当にその子が「怒られないと分からない」のか。
それとも、大人も子どもも、「強く言えば相手は動く」という関わり方を、知らないうちに受け渡しているのか。
そんな問いが見えてきます。
「分からせる」より、その先に何を育てたいのか
もちろん、子どもを止めなければならない場面はあります。
道路に飛び出しそうになったとき。
誰かを傷つけそうになったとき。
危険が迫っているとき。
そんなときまで、ゆっくり説明すればいいとは思いません。
必要なら、はっきり止めることもあります。
でも、毎日の関わりの中でいつも「強く言って動かす」が中心になっていくとしたら、少し考えてみたいのです。
私たちは、その場で子どもを動かしたいのでしょうか。
それとも、少しずつでも、
「今はどうしたらいいかな」
「相手はどんな気持ちかな」
「自分はどうしたいかな」
と、自分で考えて選べる力を育てたいのでしょうか。
すぐに動いてくれることだけを求めるなら、強く言う方が早いこともあるかもしれません。
でも、「早く動いた」ことと、「自分で考えて動けるようになった」ことは同じではありません。
私は、そこを分けて考えたいと思っています。
大人も、選び直すことができる
強く言いたくなるときもあります。
何度言っても伝わらないように感じて、イライラすることもあります。
余裕がなくて、つい大きな声になることだってあります。
だからこそ、
「また強く言ってしまった」
と自分を責めるのではなく、
「私は今、何を伝えたかったんだろう」
「子どもに、何を分かってほしかったんだろう」
「この子を動かしたかったのか、それとも考えてほしかったのか」
と、一度立ち止まってみる。
私たち自身が、強く言われて動くことを学んできたのだとしたら、その方法を使ってしまうことは不思議ではありません。
でも、気づいたところから、違う関わり方を選び直していくことはできます。
子どもに「優しく言いなさい」と伝えるなら、大人もまた、自分の伝え方を見直していく。
子どもに「相手の気持ちを考えて」と伝えるなら、大人もまた、その子の中で何が起きているのかを考えてみる。
その積み重ねが、子どもにとっての「人と関わる方法」になっていくのではないでしょうか。
「この子は、怒らな分からへん」
そう思ったとき、
ほんの少しだけ立ち止まってみる。
本当に、この子は怒られないと分からないのだろうか。
それとも、
強く言われて動くことを繰り返す中で、
「強く言われたら動く」という関わり方を覚えてきたのだろうか。
そして、その子が誰かを動かしたいとき、
同じように「強く伝える」という方法を使っているとしたら。
私たち大人もまた、
自分がされてきた関わり方を、
知らないうちに次の世代へ渡しているのかもしれません。
だから私は、
「どうしたらこの子を動かせるか」の前に、
「この子は、今、何を学んでいるんだろう」
と考えてみたいのです。
子どもがすぐに動かなかったときこそ、
その子を「怒られな分からへん子」と決める前に、
私たちの見方を、もう一度だけ見直してみる。
そこから、今までとは違う関わり方が始まるのかもしれません。







