『なぁ、おいしいやろ?』白ご飯に汁をかけた先生に、私が引っかかった理由

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『なぁ、おいしいやろ?』白ご飯に汁をかけた先生に、私が引っかかった理由

『なぁ、おいしいやろ?』白ご飯に汁をかけた先生に、私が引っかかった理由

2026/09/30

「このご飯にかけたら、おいしいで」

ある日のお昼ご飯の時間。

白いご飯が残っている子がいました。

 

すると、補助に入っていた先生が、おかずのお汁をご飯にかけて、

「なぁ、おいしいやろ?」

と声をかけました。

 

きっと先生は、

「白いご飯は食べにくいのかな」
「味がつけば食べやすくなるかもしれない」
「少しでも食べられるようにしてあげたい」

そんなふうに思ったのだと思います。

 

子どものためを思ってしたことだったのでしょう。

でも私は、その場面がずっと心に残りました。

 

なぜなら、この出来事には、

私たちが、自分の見方を「事実」だと思ってしまう瞬間が、そのまま表れているように感じたからです。

私は、白ご飯におかずのお汁をかけて食べさせることを、あまり好きではありません。

でも今回、私が違和感を持ったのは、その食べさせ方そのものだけではありませんでした。

 

私が気になったのは、

この子は、お汁をかけてほしかったのだろうか。ということでした。

 

白ご飯が残っていた。

そこから大人は、

「食べにくいのかな」
「味がついたら食べられるかもしれない」と考えた。

そして、その考えのまま、お汁をかけた。

 

私がまず引っかかったのは、その間に、「どうしたい?」がなかったことです。

 

私なら、そんなときは、「おにぎりにする?」と聞くことがあります。

そして、子どもが「する」と言えば、一口くらいの大きさにご飯をまとめます。

 

味を変えるわけではありません。

白ご飯は白ご飯のまま。

少しだけ、手に取りやすく、食べやすい形にする。

それだけで、子どもが喜んで食べ、白ご飯そのものを少しずつ食べられるようになっていく姿を、私は何人も見てきました。

 

だからといって、私は「この方法がいいですよ」と勧めたいわけでもありません。

 

大人が提案することと、
大人が決めてしまうことは違う。

そこを大切にしたいと思っています。。

「白ご飯が残っている」は事実。でも、その先は?

「白ご飯が残っている」は事実。でも、その先は? ここで少し、場面を分けて考えてみます。

実際に起きていたことは、「白ご飯が残っていた」ということです。

これは、誰が見ても確認できます。

 

でも、「白ご飯が嫌いなのかな」

「白ご飯だけでは食べにくいのかな」

「味をつけたら食べるだろう」

「食べた方がこの子のためだ」

ここから先は、すべて大人側の見方です。

 

もちろん、その見方が当たっていることもあります。

でも、当たっているかどうかは、その時点ではまだ分かりません。

本人に聞いていないからです。

 

ところが人は、自分の中で筋が通ると、

「そうかもしれない」だったものが、

いつの間にか、「そうなんだ」に変わってしまうことがあります。

そして、自分の見方をもとに行動し始めます。

私たちは「起きていること」より、「自分の解釈」を見ていることがある

これは、食事だけの話ではありません。

 

・靴を履くのに時間がかかっている子を見て、「できないんだ」と思って、すぐに履かせる。

・片づけない子を見て、「片づけたくないんだ」と思って注意する。

・抱っこを求める子を見て、「甘えている」と思う。

・友だちに玩具を貸さない子を見て、「意地悪している」と思う。

でも、本当にそうなのでしょうか。

 

・靴は、自分でやってみたい途中だったのかもしれません。

・片づけないのではなく、まだ遊びが終わったと思っていないのかもしれません。

・抱っこは、安心を確かめようとしているのかもしれません。

・玩具を貸さないのではなく、まだその玩具でやりたいことが残っているのかもしれません。

どれが正しいかを、ここで決めたいわけではありません。

 

大切なのは、

「私には、そう見えているだけかもしれない」と、一度立ち止まれることです。

「この子は〇〇だ」と言った瞬間、問いが止まる

たとえば、「この子はわがままだ」と思ったとします。

 

「わがままな子」と決めてしまえば、その後に出てくるのは、

「どうやってやめさせよう」
「どう言えば分からせられるだろう」という問いになりやすい。

 

でも、「私は、この行動をわがままに見ている」と置き直してみる。

すると、「この子には、何が起きているんだろう」という別の問いが生まれます。

 

・「あの人は怒っている」ではなく、「私には、怒っているように見える」。

・「この人はやる気がない」ではなく、「私には、やる気がないように見えている」。

ほんの少しの違いです。

 

でも、この違いがあることで、

相手を決めることから、
相手を知ろうとすることへ、

関わり方が変わっていきます。

「良かれと思って」が、相手の選ぶ余地をなくすこともある

私たちは、大切な人ほど、何とかしてあげたくなります。

困らないように。

失敗しないように。

早くできるように。

食べられるように。

傷つかないように。

 

だから、先に手を出したり、答えを教えたり、代わりに決めたりします。

そこには、多くの場合、悪意なんてありません。

 

むしろ、「この子のために」という気持ちがあります。

でも、だからこそ難しいのだと思います。

善意があると、自分の行動を疑いにくくなるからです。

 

「この子のためにやっている」と思っていると、

「この子は本当に、それを望んでいるのかな」

という問いが抜けてしまうことがあります。

子どもを尊重するということは、何もしないことではない

サブタイトル

子どもの意思を大切にするというと、

「じゃあ、全部子どもに任せるの?」と思う人もいるかもしれません。

私は、そうは思っていません。

 

大人だから見えることもあります。

経験があるから提案できることもあります。

危険なことは止めなければならない。

助けが必要なときには支える。

 

でも、支えることと、代わりに決めることは同じではありません。

「おにぎりにする?」と提案する。

 

「手伝おうか?」と聞く。

「一緒に考える?」と声をかける。

その中には、「あなたはどうしたい?」という余白があります。

 

その余白を残したまま、大人ができることを差し出す。

私は、それが大切なのではないかと思っています。

「分かっているのに、できない」の中にも、この問題がある

子どもを尊重することが大切。

気持ちを受け止めることが大切。

自分で考える力を育てることが大切。

多くの人が、もう知っています。

 

それでも、毎日の生活の中では、つい先に答えを言ってしまう。

つい手を出してしまう。

つい「こうした方がいい」と決めてしまう。

なぜでしょう。

 

知識が足りないだけではないのだと思います。

私たちは無意識に、自分が見えているものを、事実そのものだと思いやすい。

 

「私はこう見ている」ではなく、

「この子はこうだ」になってしまう。

だから、知識を増やすだけでは、同じことを繰り返してしまうことがあります。

まず、自分の見方に気づく

まず、自分の見方に気づく子どもを変える前に。

誰かに何かを教える前に。

 

「この人はこういう人」

「この子はこういう子」と決める前に。

 

一度だけ、

「これは本当に事実なのか。それとも、私はそう見ているのか」と問い直してみる。

それだけで、関わり方が少し変わることがあります。

 

あの日、白ご飯が残っていた。

そこまでは事実でした。

でも、そのあと何をするのか。

そこには、大人の見方が入ります。

 

だからこそ私は、

すぐに答えを出す前に、「どうしたい?」と聞ける大人でいたいと思っています。

 

子どもが自分で考えて、選んで、行動できるようになるために。

その最初の一歩は、

子どもに何かを教えることではなく、

大人自身が、自分の見方に気づくことなのかもしれません。

 

あなたが最近、

「この子はこうだ」
「あの人はこういう人だ」と思った場面はありますか。

それは事実だったでしょうか。

それとも、あなたには、そう見えていたのでしょうか

• 保育士歴25年以上/幼稚園教諭5年(現役)

• 2,000人以上の親子と伴走/才能クリエイト協会認定 上級コーチ

• メディア: サンテレビ「ネクストニッポン」出演(2025年11月放映)

• 著書: 『愛情に秘められた親のホンネ』

• 拠点: 大阪府岸和田市(オンラインで全国対応)

• 独自技術: まなざし診断「マナシン」(商標登録出願中)× AIプロンプトエンジニア資格


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